“暗黒街は弱肉強食の世界、通用する掟は只一つ、力だけである。弱みを見せたが最後そこには死が待ち受けている。1935年4月、ニューヨーク全市は飽くなき残忍さを武器に暗黒街の王座に就いたダッチ・シャルツことアーサー・フレーゲンハイマーの支配下にあった。彼の一味は、それまでに100以上の殺人を犯してきたと言われ、酒に麻薬にナンバース博打に、あらゆる不法所得を独占してその勢力は動かすべからざるものがあった。”
“1931年5月8日、地下壕を出てアイオワ州バリントンへ向かった急行列車は、ヒルスデールの郊外で非常信号によって急停車させられた。ガスマスクを被った三人組の強盗は郵便車を襲い、護衛のネルソンを射殺し、100万ドルにのぼる国債を強奪して逃走した。
それから三ヶ月後、シカゴの暗黒街に勢力を誇っていたトミー・カーペラスが、ヒルスデールにおける列車強盗の共犯として逮捕された。公判は異例の早さで進み、カーペラスが1922年に催涙弾とガスマスクという、今度の事件と全く同じ手口で強盗を働き、五年間の懲役に処せられていたという決定的な事実が明らかになった。弁護士の必死の努力のかいもなく、ついにカーペラスは終身刑の判決を受け州立刑務所へ送られた。
それを聞くやFBI特別捜査班アンタッチャブルの隊長エリオット・ネスは、担当検事に面会を求めた。”
“1933年3月31日、シカゴはハウザー街のジュゼッペ・ブコーの家は、やがて訪れる破局も知らず、穏やかな春の日を浴びていた。”
“1934年以前は、銀行強盗はFBIの管轄下にない。出不足で非能率的な地方警察が捜査にあたっていたが、警察の無力に気をよくしたギャングたちはやたらに拳銃を振り回し、機関銃を乱射するといった強引なやり口で次々と犯行を重ねていった。しかし、彼らの全部が不手際だったわけではなく、中には国立農業銀行を襲って口も聞かず、ほとんど物音も立てず、15万ドルを奪うという水際だった手口を使う一味もいた。
1934年3月7日、連邦検事ビーチャー・アスバリーはエリオット・ネスをオフィスへ呼んだ。”
“アル・カポネの逮捕により指導者を失い、その上エリオット・ネス以下アンタッチャブルの面々の活躍でウイスキーの密売が引き合わぬことを知らされたギャングたちは、暴力を背景にした恐怖をただ一つの商品に、街中に散在する映画館に新たな収入源を求めた。シカゴ郊外ウォークパークにある映画館は、一日の営業を終えようとしていた。所有者は他にも小さな映画館をひとつ経営するハロルド・コールマン。この世に敵はいないほどの好人物であったが、彼には思いもかけぬ災難が待ち受けていた。カポネの右腕として名を売り、一味の黒幕の手で今やボスの座につけられたフランク・ニティと、その用心棒ルイ・カンパニアである。”
“1933年6月8日、ニューヨークのヤンキースタジアムに設けられた特設リングで、クリモ・カルネラが6ラウンドでジャック・シャーキーをノックアウトし、ヘビー級の世界選手権を獲得した。それから約一時間後、入場券の売り上げ24万ドルを積んだ現金輸送車が3人の護衛に守られて試合場を出発し銀行へ向かったが、クロムウェル通りを曲がったとたん、輸送車の直前を若い女が横切ろうとした。交通事故と見せかけたのは車を止めるための巧妙なトリックで、中にいた護衛も催涙弾を投げ込まれてはどうしようもなかった。一味の動きは実に素早く、全くの無言のうちに金を移し始めた。そのメンバーは、自ら囮となったアイリーン・メイニー、レン・カースン、ボスのシーク・ハンフリー、そして新しく一味に加わったジェイク・ローガンの四人である。”
“1933年も中頃になると、エリオット・ネス以下アンタッチャブルの徹底的な摘発を受けてシカゴにおける闇ウイスキーの取引はほとんど根絶されてしまっていたが、巧妙なカモフラージュの元でただ一人だけ厳重な取り締まりの目をくぐってウイスキーの製造を続けている男がいた。ジュセッペ・マルコーニことガス・マルコーである。彼はタクシー会社の経営を表看板に、ガレージの下を掘り抜いてウイスキーの製造工場をしていたが、ガス・マルコーのやり口は時間をかけて大麦から醸造するなどの工程はいっさい抜きで、アルコールに水を割り、少しばかりの香料を加え瓶に詰めるという、いとも手軽な方法で折りからの供給不足に莫大な利益を上げていた。
例によって、ガス・マルコーが立てた計画に抜かりはなかった。連邦政府直轄の倉庫に貯蔵された何千キロリットルという薬用アルコールを、守衛を買収して盗み出そうというのである。ガス・マルコーの甥マイク・マルコーニの指揮の下に一味は慣れた手つきで仕事を始め、ドラム缶のアルコールがどしどしと積み出され、代わりに水が注ぎ込まれていった。彼らの活動は素早く、50万ドルのアルコールを移しかえるのにわずか30分しかかからなかったほどである。”
“1931年4月19日午前5時、いまやニューヨーク市の朝は明けようとしていた。しかし、市の郊外にあるここワシントン青果市場はすでに活況を呈し、マンモス都市の食欲を満たすべく夜のうちに運び込まれた何十万トンという野菜や果物が、忙しく動き回る仲買人たちの手で取引され、続々と市中へ送り出されていった。貪欲なギャングがこれを見逃しておくはずはなく、仲買人のほとんどをその勢力下においていたが、なかにはアンジェラ・セスタリとその妻ソフィアそして息子のトニーのように暴力に屈せず黙々と営業を続ける人々もいたのである。”
“1933年の後半から34年にかけて、バージニア、ペンシルバニア、メリーランドの三州にわたって、ハイウェイ通行中のトラックを止め積み荷を強奪するという凶悪な一味が横行していた。そのメンバーは常に変わらず、ちゃちなギャンブラーから一味に加わったアーティ・マクラウドと、大男のビル・フィリップス、一味の最年長はライト級のチャンピオンを争ったこともあるジョージ・カウフマン、盗品の処分を受け持つのがイギリス生まれで生来の用心深さから蝙蝠傘を片時も離さぬジェームス・ハリス、一味の参謀はサン・クエンティンを脱獄した殺人犯ボビー・メイツ。そして彼らのボスこそウォーリー・レゲンザといって五人の手下からさえ恐れられており、人を殺すことに異常な喜びを感じる残忍な野性と、ヘビのような狡猾さを兼ね備えた男である。
かねてから一味の捜査に当たっていたエリオット・ネス以下アンタッチャブルの一行は、知らせを受けるやリッチモンドの警部ウィルソン氏とともに現場へ急行した。”
“1933年8月3日、ペンシルバニア州ルイスパークにある連邦刑務所から脱獄を企てた男達がいた。銀行強盗で終身刑に服していたフランク・フォロウェーが、2年と17日間を刑務所で暮らした後、再び自由の世界へ飛びだそうとしていたのである。フォロウェーが脱獄を図ったのにはそれ相当の理由があった。銀行を襲った四人のうち二人は射殺されてしまったが、逃げ延びたエド・ジョンソンが50万ドルの現金を保管していたのである。”
“1931年2月28日、ケンタッキー州チャーチルタウンではダービー出走馬の登録が締め切られ、メキシコのティワナにある犯罪シンジケート直営の私設馬券売場が大口の賭けを引き受けた。10万ドルの金を投じたのは財布のひもの堅いことからダッチマンと呼ばれる、通称ダッチ・シャルツことアーサー・フレーゲンハイマーJr.である。折しもニューヨークに大きな縄張りを持つ彼のオフィスでは、御大のダッチ・シャルツをはじめ、用心棒のマーティ・プリストワル、彼の右腕レフティ・ギャラガーの3人は前日のあがりの計算に余念がなく、外に待ち受ける男達に気づくはずもなかった。パッツ・フィンレー、ニードル・ブレッソー、そしてダッチに病的な憎しみを抱き理由もなく発作的に殺人を犯す狂暴さから気違い犬とあだ名されたビンセント・コールの3人である。”
“1931年4月、エリオット・ネスの率いるアンタッチャブルは、単にシカゴのみならずアメリカ全土にわたって絶大な権力を振るう暗黒の帝王アル・カポネに対する熾烈な戦いを続け、全世界を覆う不景気の波をよそに売春に麻薬に密造酒に莫大な利益を上げわが世の春を謳歌していたカポネの王国も度重なる摘発にその収入源を破壊されて、十年間にわたって彼が占めてきた帝王の座も今や危殆に瀕していた。ギャングたちがこの機会を逃すはずもなく、王座を狙って激しい葛藤が演じられていたが、衰えたりとはいえカポネの勢力は未だ侮りがたく、表だった動きを見せるのはチャールズ・フェルチャーただ一人であった。弁護士のアーチー・グレーソンと手を組んで、わずか数年のうちに東部海岸一帯を掌握したニューヨークのボス・フェルチャーの名はすでに高く、シカゴ郊外で開かれた彼のパーティには名のあるボスたちが顔を揃えていた。”
“1931年4月、イリノイ州南部の小都市モレーンでは、施政の刷新とギャングの追放を公約して当選した新任の市長マーカス・ストーンがラジオを通じて就任の挨拶を行っていた。
その夜祝賀パーティも終えて、まだ興奮も冷めやらぬ市長夫妻が自宅へ帰ったとき、すでに12時を過ぎていた。”
“エリオット・ネスの努力によりアル・カポネは懲役刑に処せられたが、いまだその勢力は衰えず、獄中から絶えず指揮を下し、密造酒が採算がとれなくなったとみるやミグ・トランスの操る巨大な売春組織に財源を求めさせた。
一方、カポネ一味の根絶を目指すエリオット・ネスは、1934年3月31日、一味の売春宿に対して七回目の襲撃を敢行した。しかし、警察の上層部とのつながりをもつ一味は、通報を受けて地下室に設けられた秘密通路を通ってミシガン湖畔へ脱出してしまい、部屋に残されたのは女の死体と彼女の死をひたすらに嘆き悲しむミグ・トランスの弟アーニーだけであった。”
“1931年、全世界を覆う不況の波はアメリカにも押し寄せ、うち続く不景気に職を失い、一杯のスープを求めて列をなす人々は巷にあふれていた。しかし、それと同時にマンモス都市ニューヨークはなおも拡大を続け、449メートルに及ぶエンパイアステートビルディングの建設も始められた。
一方シカゴにおいては、カポネ一味との戦いを続けるアンタッチャブルの隊長エリオット・ネスは、一味が密造ウイスキーの原料に何万リットルという薬用アルコールを使用していることを知り、連邦検事ビーチャー・アスバリーに面会を求めた。”
“1932年9月、シカゴから700km離れたここカンサス州レバンワースの連邦刑務所には、当時Gメンと呼ばれ犯罪者たちから恐れられていた連邦検察官の働きによって捕らえられたギャングや密輸業者など、定員をはるかに越えた3000人の囚人が収容されていた。この男ニック・シーガルもその一人である。彼は少なくとも6人の人を殺した名うてのギャングでありながら、政界とのつながりを利用してわずか三年の刑で事を済ませ、一年経った今仮釈放を申請して娑婆へ出る日を待ちかねていた。”
“1932年7月、度重なる取り締まりに南ヨーロッパやアジアからの麻薬の供給は完全に遮断されてしまっていたが、莫大な利益をギャングたちが易々とあきらめるはずもなく、病院の薬剤室や薬屋を襲って麻薬を強奪するという最後の手段に出た。被害は驚くべき勢いで増加し、やり方も巧妙さを加え、ついにエリオット・ネスが捜査を命じられたが、今までと全く違った手口に、犯人の正体は暗黒街の動きに精通するネスにもわからなかった。”
“1931年4月16日夜、ニューヨークの密造ビールを一手にまかなうワクシー・ゴードンは、ハドソン川を越えてニュージャージー州一帯を支配するフランキー・ダン,バックス・ドノバン,ロジャー・ワイトンの三人のボスに戦いを挑んだ。
翌朝、ニューヨーク州を管轄する連邦検事ジョーン・カーベルの求めでシカゴから急行したエリオット・ネス率いるアンタッチャブルが事件の捜査を始めた。”
“1931年、底知れぬ不況の波がアメリカ全土を覆い始めた。しかし、世の中の不景気をよそに非合法のナイトクラブやもぐり酒場は以前にも増した活況を呈し、禁酒法が生み出した新しい貴族とも言うべきギャングたちはわが世の春を謳歌していた。射撃の的のように何回となく狙い撃ちされるところから「クレー・ピジョン」と渾名されるレッグス・ダイヤモンドもそのそうそうたるメンバーの一人である。彼をめぐるゴシップの種は豊富で、現在も人気歌手のローラ・ノーマンとつき合って話題をまいていた。
ローラを家まで送ったダイヤモンドは車を戻して、もぐり酒場のしがない用心棒から彼をニューヨークでは押しも押されもせぬボスの地位に引き上げてくれた男のアパートを訪れた。悪辣なトリックを縦横に使って手に入れた莫大な金を背景に、黒幕として暗黒街に絶大な権力を振るっているオスカー・ベンジャミンである。例によって彼の部屋では、多額の金を賭けたポーカーが行われ、ニューヨークの暗黒街を支配するボスたちが顔を連ねていた。即ち、大がかりなビールと麻薬の密売で巨額の利益を貪るビル・スーニー、ハーレムとブロンクス地区を完全に支配するダッチ・シャルツ、そして売春にギャンブルに今売り出しのラッキー・ルシアノ、いずれ劣らぬ顔役たちである。”
“1932年春、新聞をはじめとする一般世論の激しい非難にもかかわらず、シカゴにおける麻薬患者の数は驚くべき勢いで増加していた。それ以前においては麻薬の取引はギャングの下っ端たちの小遣い稼ぎに過ぎず、売買される麻薬の量も極わずかなものであった。リトル・チャーリーことチャーリー・サバティーノの巧みな采配のもとに組織的な犯罪に姿を変え、取引も莫大な額に上っていた。彼のやり方は巧妙を極め、あらゆる階層の人間を使って売りさばきにあたらせていた。”
“オハイオ州クリーブランド付近を巡業中のカーニバルの射的場で、百発百中の腕を見せている男がいた。強盗と麻薬の密売の前科をもつハンス・ベーベルハントである。混雑に紛れて大量の麻薬が取引されていることを探知したエリオット・ネスは、カーニバルを包囲した。
エリオット・ネス苦心の捜査も水泡に帰し、37の移動カーニバルを所有しアメリカ全土をまわらせ麻薬取引の舞台にしていた20世紀前半の麻薬王オットー・フリックは、いち早く逃走してしまった。1934年5月3日のことである。すでにメキシコやカナダからの密輸ルートはエリオット・ネスの努力により完全に遮断されていたが、オットー・フリックはいささかも痛痒を感じなかった。新たな供給者が現れたのである。オットーは彼の右腕ハンス・エーベルハットとともに以前にも増した勢いで麻薬取引を再開した。捜査は完全に振り出しに戻り、アンタッチャブルは賭博城場や売春宿を襲い麻薬の常習者を尋問するという骨の折れる仕事を再び繰り返すほかはなく、エリオット・ネスはわずかな可能性を求め製薬会社の責任者を次々と訪ね回った。ニューヨークにあるアメリカ屈指の製薬会社の社長マリン・グローダもその一人である。”
“1931年5月25日夜、百万ドルのジャマイカジンジャーを積んだトラック二台がカンサスシティへ向かっていた。西インド諸島で採れるジャマイカジンジャーは多量に摂取すれば死に至るほどの毒があるにも関わらず、ウィスキーの代用として当時下層階級の間で広く飲まれていた。トラックの持ち主ラファエル・トレスは、このジンジャージェイクを大量に売りさばいて莫大な利益を上げていた。しかし、ジンジャージェイクの儲けを狙う男は他にもいた。最近着々と勢力を伸ばしてきた新興のボス、ジェリー・ラカバである。彼はトレスのトラックを奪う計画を立て、五人の手下とともに待ち伏せていた。まず、カンサスシティ名うての殺し屋ロック兄弟、殺人容疑で三回の逮捕を受け三度ともうまく罪をまぬがれたアンディ・ベロー、拳銃強盗を働いて十一年をアトランタ刑務所で過ごしてきたリッチー・ピータス、そして度重なる傷害沙汰に六年の刑を課せられ最近出獄したウォリー・ハイルマンと、いずれ劣らぬしたたか者である。”
“1933年秋、シカゴを50km離れた人口わずか1万のここキャラムシティでは、市長選挙を数日後に控えて、市政の腐敗を憤る革新派の人々が苦しい戦いを続けていた。
キャラムシティの市政の刷新を公約して立候補したレオン・ザボー判事に敵がいたことは当然とも言えよう。禁酒法もどこ吹く風とせまい街にひしめいていた百を越えるバーやナイトクラブを閉鎖されて6ヶ月、ギャングたちが反撃を開始したのである。
一方シカゴにおいては、エリオット・ネスの追求にいたたまれなくなった犯罪シンジケートのボスたちは、その財源たる麻薬密売の本拠をいずれかへ移してしまっていた。”
“1933年9月23日午後、ニューヨークのセントラルパークにあるホテルの一室で重要な会議が開かれようとしていた。次々と車を乗り付ける男たちは動作もそして話し方も鷹揚で、知らぬ者には大会社の社長としか見えなかったがさにあらず、ルイジアナ州を牛耳る政界の黒幕ハロルド・ビッシュマン、かつてデトロイトのパープルギャングのボスとして鳴らしたラルプ・ルチ、マイアミの賭博場を一手に支配するオギー・エプシタイン、カンサスシティのボス ディノー・マティロ、シアトルを本拠に北部一帯に不動の縄張りをもつアート・マーティン、そして的確な判断と抜け目のなさを武器にニューヨークの犯罪シンジケートを陰で操るマイロ・サリバン。この六人のボスたちが集まったのは、現金を持ち寄って適当な相手に犯罪を行うための元手として高利で貸し付けようというサリバンの計画を検討するためであった。犯罪者専門の銀行を開こうというのである。”
ゲスト:ピーター・フォーク
“1933年夏、さまざまな話題を生んだ禁酒法も一年足らずで廃止の運命にあったが、その副産物たるギャングは依然として繁栄を極め、全国的な組織をもつシンジケートにまで発展して、密造酒の将来に見切りをつけたボスたちは麻薬にナンバース博打にあるいは売春に虎視眈々と狙っていた。しかし、シカゴのボス ビッグ・ジム・ハリトンの考えは違っていた。密造酒から上がる儲けを捨てず、なお莫大な利益を上げようとして悪辣な方法を考えていたのである。”
“1932年、密造酒の取り締まりは依然として活発に続けられていたが、禁酒法に対する非難の声が社会に高まり、その廃止を見越したギャングたちは新たな財源を求めていた。そこへリンドバーグ事件が起こり、犯人がまんまと5万ドルをせしめるや、ギャングたちもそれを見習って誘拐事件が各地に続々と発生していった。飽くなき残忍さと狡猾なやり方で市民を恐怖に陥れていたデトロイトのパープル・ギャングも例外ではなく、その犠牲者に暗黒街のメンバーを選ぶという巧妙な手口を思いついて、すでに八月の末には警察も知らぬうちに10万ドル以上の身代金を手に入れていた。一味の指揮をとるのは銀行強盗の前科をもつエディ・フレッチャーで、その素早く回転する頭脳と恐れるものを知らぬ狂暴さには、全国に勢力をふるっていたカポネ一味も一目置いていたほどである。”
“1934年9月16日夜、ミルウォーキー郊外のハイウェイを疾走する一台のトラックがあった。積み荷は造幣局へ送られる、紙幣を印刷するための用紙である。その約2km前方の十字路に、作業を続ける四人の男たちがいた。アメリカの犯罪史上最大と言われる紙幣偽造の計画が今や実行に移されようとしているのである。”
“1932年9月8日夜、闇に紛れてカナダの国境を越え、シカゴに向かった四台のトラックがあった。積み荷は、安くふんでも10万ドルは下らなぬ、1万2千本のスコッチ・ウィスキーである。しかし、その行く手にはカナダの警察から通報を受けたアンタッチャブルが待ち伏せていた。そして、その前方約10kmの地点にもう一組トラックを待つ男たちがいた。シカゴにナイトクラブを経営し、縄張りの拡張をもくろむフィル・コービンである。ウィスキー輸送の指揮を執るのはホワイティ・バロウズで、最近カポネの縄張りにくい込んでシカゴに着々と勢力を築き上げてきた今売り出しのボス ルー・スカリッシュの一の子分である。”
“1931年春、ギャングの恐怖と暴力の手は家庭の必需品牛乳にまで伸びていた。一味のボスは元カポネの子分ラリー・フェイで当時1クォートすなわち0.95リットルにつき10セントで売っていた牛乳を不景気で全ての物価が低落を続けていたにも関わらずニューヨーク市街の主要な牛乳会社を脅迫しその勢力下に収め逆に1クォートにつき3セントの値上げを行っていた。値上げに反対する販売店は一味の手であらゆる嫌がらせを受け、脅迫に屈せず安い値段で牛乳を売り続ける会社は輸送中のトラックが、工場が、徹底的な報復を受け、破産するか一味と手を組むかのどちらかの道を選ぶことを余儀なくされていった。
抵抗を続ける者のうちウェイン・オーエンスがいた。四代にわたって着実な経営を続けてきたオーエンス乳業の社長である。”
“暗黒街の帝王と言われたアル・カポネが有罪の判決を受けてから3週間、1932年5月26日、法務省はギャングの取り締まりに当たるFBIの権限を強化するための法案を議会に提出した。その翌月、上院の特別委員会は証言を求めるためFBIの首脳部をワシントンへ招集した。”
“1932年10月1日、イリノイ州立シカゴ裁判所は、政界の上層部と手を組んで賭博場や売春宿を経営しウエストサイドに強大な勢力をもつセオドア・ニューベリーの起訴審問を開くことを決定した。しかし、彼の有罪を証明するのは困難を究め、ただ一人の証人たる市役所の下級事務員ジュリアス・ハーパーの自宅には厳重な護衛がつけられていた。”
“1934年9月8日午前5時15分、523人の乗客と111人の乗組員を乗せたキューバ航路のアメリカ汽船モローキャッスル号は、ニュージャージー州スピングレー区の沖合いで火災を起こした。ハバナからの情報でモローキャッスル号の入港を待ち受けていたエリオット・ネスは、知らせを受けるや現場へ急行した。彼の目当ては、元弁護士でアメリカ全土を支配する巨大な犯罪シンジケートの創設者の一人として知られるバレンタイン・フェラーの逮捕であったが、情報によるとフェラーはキューバにおけるシンジケートの利権から集めた100万ドルの大金を持っているというのである。”
“1932年春、不景気は世界を覆い、豪奢な暮らしを続ける特権階級は失業者からギャングまであらゆる階級の怨嗟の的になっていた。シカゴ・ミシガン湖畔に豪勢な邸宅を構える建築業者トーマス・ランダルもその例外ではなく、守衛の油断を見すまして廷内へ押し入らんとしている男たちがあった。ウィスキーの密造者から一味のリーダーにのし上がったジョージ・ダラス、デトロイトのパープルギャングの用心棒をつとめたピート・グラハム、銀行強盗の前科二つをもつマーティ・ストーク、そして元ヘビー級のボクサー ジグス・ウィンザーの四人である。”
“1931年4月24日、シカゴの市立体育館はわれるような喚声の坩堝と化していた。試合場を埋めて集まったのは、ルールやテクニックには露ほどの関心ももたず、その日の食費を割いて勝負に賭けた金が何倍になって戻ってくるかという事ひとつに興味を集中する1万1千の入場者と、その賭け金を扱って莫大な利益を上げるギャングたち。そして、リングの上にはジョーイ・マッグラスがいた。ジョーイは25戦してノックアウト勝ち23回と、強烈なパンチを誇るボクサーで、いずれはライトヘビー級のチャンピオンと言われている男である。しかし、その日の戦いはジョーイに勝ち目はなかった。”
“1932年10月11日、州検事の選挙を三週間後に控え、悪徳官吏の追放を公約してシカゴから立候補したデビット・マントレーは、ギャングたちの妨害のうちに苦しい戦いを続けていた。
その頃市民ホールでは、盛大な晩餐会が開かれていた。主賓はシカゴの市政を牛耳る政界のボス ブライアン・オマーレーで、州間通商法違反と殺人の罪に問われ、一週間後に連邦裁判所に出頭を命じられている男である。”
デビット・マントレー(納谷悟朗)
ブライアン・オマーレー(中村正)
他
“1932年10月19日、首都ワシントンでは大統領選挙を二十日後に控え、再選を目指すハーバート・フーバー、それに小児マヒのハンディキャップに打ち勝ち民主党の指名を獲得したフランクリン・ルーズベルトとの間に激しい戦いが続けられていた。一方その騒ぎをよそに、FBI本部では重要な会議が行われている。
当時シカゴのウィスキー王と言われていたのはウォーリー・バルツァーで、彼は元薬剤師のマックス・ピシャーをパートナーに、大量のアルコールをウィスキーに加工して莫大な利益を貪っていた。”
“1932年、ルーズベルトが禁酒法の廃止を唱えて大統領に立候補、ギャングはその対策に汲々としていたが、カポネの後継者フランク・ニティは平然たるものであった。かねてから一味の収入源を麻薬に移し、すでに11月のはじめには万全の備えを固めていたのである。しかし、それも束の間、12月に入ると突然麻薬の供給が減り始め、翌年の1月には完全に停止してしまった。
2月20日朝、フランク・ニティとその右腕ピート・コーニッツがシカゴを発ち、午後4時40分ニューオリンズに着いたが、彼らの様子に不審を抱いた男があった。ウイラード警部である。”
ニティ(若山弦蔵) 他
“1930年6月、連邦麻薬局が創設され、増大する麻薬の脅威に対する根本的な対策が講じられることになり、依頼を受けた蒋介石総統も全面的な協力を約束し徹底的な取り締まりと相まって1932年の初頭には中国からのアヘン密輸はほとんど根絶されていた。
しかし、1933年4月、アル・カポネの後継者フランク・ニティのもとに大量のアヘンの売り込みの交渉がもちこまれ、5月4日、ニティの子分エド・ゲティが見本を受け取るべく約束の場所へ赴いたが、そこにはすでに彼らの到着を待ち受ける男たちがいた。エリオット・ネスとその部下リー・ホブスンの二人である。”
“過酷な税金の取り立てに、様々な社会的問題を惹起していたアメリカにも、禁酒法が施行されるにおよんで再び暗黒時代が訪れた。自ら徴税吏をもって任ずるギャングたちが、ダイナマイトと機関銃の道を縦横に駆使して、ウィスキーから牛乳に至るまであらゆる商品・あらゆる企業から税金を取り立て始めたのである。ニューヨークのフルトン魚市場もその例外ではなく、ニューヨーク近辺はもちろんミシシッピーの流域にまで販路をもち年間二億ドルにのぼる取引を行う巨大な卸売市場もギャングの支配するところとなっていた。”
“1932年11月21日夜、エリオット・ネスの率いるアンタッチャブルは匿名の電話情報をもとにシカゴ サウスサイド ローリーストリートにある倉庫を急襲した。
翌朝、マーシャル職業紹介所は既に閉鎖されていることが発見されたが、帳簿により、倉庫にいた労務者の言葉が証明され、二人は釈放された。そのうえ厳重な捜査も問題のシャンペンとの関係が立証できず、倉庫の持ち主ミシェール・ビトンも釈放された。”
“1932年4月25日、暗黒の帝王アル・カポネはすでに11年の刑に服していたが、一味の本拠シカゴ サウスサイドのカフェ「モンマルトル」の二階では、トップメンバー8人が集まって激論を戦わせていた。会議を招集したのは一味の会計を取りしきるジェイク・グージックと、自らカポネの後継者をもって任ずるフランク・ニティの二人。カポネの逮捕によって生じた混乱の収拾を図ろうというのである。
しかし、それに続いた一週間、一味は次々と大きな打撃を受けていった。混乱に乗じて縄張りにくい込もうとするアーニー・ブロー一派が嫌がらせを始めたのである。もぐり酒場は片っ端から襲撃され、トラックが奪われ、密造所が徹底的に破壊された。”
“1931年春、ギャングたちは犯罪シンジケートをつくりあげ、密造酒からあがる莫大な利益を主たる財源に、強大な勢力を誇っていたが、エリオット・ネスの率いるアンタッチャブルは一味の密造所を次々と急襲し、密造酒を一時は完全に姿を消すかに見えた。しかし、シンジケートがたやすく屈服するはずもなく、新しい手口を考え出した。世界を覆う不景気の波に押しまくられて生活の手段を失った移民たちを使って、その屋根裏に地下室に、わずか3ドル内外で組み立てられる醸造装置を作らせ、失われた密造ウィスキーの供給源に変えようというのである。シンジケートはその仕事を、シカゴのイタリア人街に絶大な権力を振るうボス、オーギー・チャミーノに命じた。計画は驚くべきスピードで進み、7月の末には醸造装置の数も1000を越えて、再び大量の密造ウィスキーが流れ始めた。しかし、8月16日の夜、チャミーノにとっては厄介な事件が起こった。”
“1931年12月、カポネ逮捕後のシカゴでは密造酒の操作は分割されて、二人の男の手によって運営されていた。市内に50を越えるもぐり酒場を経営し販売を受け持つのが気の小さなことで有名なオートことマイヤー・オークスである。一方、大がかりな醸造設備を擁して製造部門はカポネの殺し屋として名を売った野心家のカール・ポジタンが分担していたが、ポジタンは突如として酒の供給を停止し、マイヤーの縄張りの乗っ取りを策した。当然の結果としてマイヤーの収入は底をつき、シンジケートへ納める金も滞り始めたが、カポネの跡を継いだフランク・ニティがそれを見逃すはずもなく、マイヤーの店を訪れて詰問した。”
“1933年9月、アンタッチャブルの急襲を受けて、暗黒街の裁判官として知られたグレン・フォーレーが射殺され、秘密法廷は壊滅した。それとともに、フォーレーの指令の下に強力な組織を誇った犯罪シンジケートもやがては崩壊するものと思われていたが、9月16日シカゴ郊外のナイトクラブ「デュピタン」には、生前フォーレーが指名しておいた後継者の認定を行うべくシンジケートのトップメンバーが詰めかけていた。後継者と目されるのは、シンジケート創設の陰の功労者として知られ、現在は引退してクラブ「デュピタン」を経営するネロ・ランキンであったが、彼の名声をもってしてもボスの座に就くためには幹部たちの投票を経なければならなかった。西部一帯のボス モーリン・ブリッジ、カナダからフロリダまで東部海岸全体を支配するルー・ヒンドルフ、全盛期のカポネとわたりあって中西部のボスにのし上がったヒューイ・バーカー、デトロイトを縄張りとするパティ・ポロースキー、そしてニューオリンズ付近一帯のボス サイ・ブレナーと、全国に発生する犯罪の5割を支配すると言われるそうそうたるボスたちである。”
“1931年夏、密造酒から上がる莫大な利益にカポネの一党がわが世の春を謳歌する間に、シカゴ ウエストサイドでは花屋を表看板に細々と営業を続けていた私設馬券売場が着々と付近の同業者を吸収し、イリノイ州はもちろん隣接する各州もその傘下におさめるほどの大組織にのし上がっていた。しかし、州外に手を伸ばすことによりその組織にFBIの司法権が及ぶことになったのである。
エリオット・ネスの率いるアンタッチャブルは、まずボスの正体を突き止めるべく市内の主要な馬券売場に張り込みを行い、その一ヶ所では電話の盗聴に成功した。”
“1933年夏、しばらく平和が続いたシカゴにふたたび犯罪の波が襲いかかり、凶悪な事件が相次いで発生した。警察の無能を非難する市民の声は日増しに高くなっていったが、ちょうどその頃、弁護士から各地の裁判官を歴任して州の内外に好評を得ていたウイラード・ソーントンが市議会で圧倒的多数の支持を得て「ポリスコミッショナー」の位置に就いた。市内の警察力を一手に掌握して犯罪の摘発に当たる重要な任務である。”
ウィラード・ソーントン(中村正)
他
“1932年4月、絶え間なく移り変わる暗黒街の勢力は、再び新しいボスの台頭を許していた。元カポネの子分でシカゴ ノースサイドにバーレスク劇場を経営するネイト・ケスターである。しかし、華やかなラインダンスも騒々しいバンドも、彼の正体を覆い隠す一つの手段に過ぎなかった。”
“1933年8月28日午後9時25分、エリオット・ネスは匿名の電話情報を元に、シカゴ警察の協力を得てミシガン湖畔のアミューズメントパークに張り込みを行った。すでにその間、一ヶ月に渡り内偵を続けていたアンタッチャブルも、遊園地の持ち主アレクサンダー・レーダーこそ最近市内に氾濫する麻薬の供給源であることを突き止めていたのである。情報によれば、その夜レーダーは50万ドルにのぼるヘロインを何者かの仲介によって犯罪シンジケートに引き渡すことになっていた。取引の場所は「恐怖のトンネル」である。”
“1932年暮れ、アンタッチャブルはミケール・クロビッチの検挙に全力を傾けていた。波止場の荷揚げ人夫からたたき上げて現在ではシカゴ ノースサイドに大きな縄張りをもつ、そうそうたる顔役の一人である。
翌年の1月、準備は完了した。帳簿が動かぬ証拠である。
それから三週間後、クロビッチの公判が開かれ、クラブの女マネージャー コニー・ラバーンほか四人の女たちも証人として喚問されて、クロビッチの有罪は確定的なものにみえたが、悪名高いノートン・ハラスが弁護人になったことは、成り行きに注目するエリオット・ネスにいささかの疑惑を抱かせた。やがてネスの懸念は現実となって現れ、自ら証人となって宣誓を行ったクロビッチは嘘と事実とを巧妙に織りまぜて容疑を頭から否定し、四人の女たちも地方検事パーカー・ウェイドの必死の追求を一切を知らぬ存ぜぬで押し通してしまったのである。しし、ハラスの悪辣なトリックはそれだけでは終わらなかった。公判五日目のことである。”
ミケール・クロビッツ(熊倉一雄)
ノートン・ハラス(ジャック・クラグマン 中村正) 他
“1934年夏、パンチボードと呼ばれる新式の賭博が考案されると、わずかな金額で遊べるという安直さも手伝って短期間の内に全国的な流行を見せ、シカゴ市内だけで年額7000万ドルの収入を上げるほどの大がかりなものとなっていた。その間、アンタッチャブルはパンチボードの印刷工場に対する襲撃を執拗に繰り返していたが、一味の首脳部を検挙するまでには至らず、全国にまたがる賭博シンジケートをつくりあげてパンチボードから上がる莫大な利益を独占する5人の男たちは一室に集まって当面の対策を協議していた。すなわち、シカゴのジェイク・ピートリー、シンシナティのチャールス・アリコー、セントルイスのギル・グラウ、デトロイトのジャック・ギャノン、ニューヨークのマックス・バロックである。”
“第一次世界大戦が終わるや、新天地を求めるヨーロッパ移民の群れがニューヨーク港エリス島の移民検疫所を通して続々とアメリカ国内へ流れ込んで来た。1922年春、この移民の群れに混じってマンハッタンへ向かうフェリーボートに乗り込んだ6人の男たちがいた。貧困にあえぐ故郷のシシリーを捨てて、金のなる木が生えるというシカゴを目指すジェナ兄弟である。それから3年、シカゴのイタリア人街リトル・イタリーを牛耳るジェナ兄弟の名は恐怖と暴力の代名詞となっていた。”
“1932年6月、ニューヨークにおける繊維産業を完全にその傘下におさめた犯罪シンジケートは、新たな収入源を求めて活動を開始していた。目標は、ニューヨーク市民の毎日の糧を預かって確実な収入を上げているパンの卸売業者である。まず供給を押さえて業者の死命を制すべく、製造工場と輸送の過程から一味の攻撃が始められた。言うまでもなくその戦法は、暴力を背景にした脅迫と報復である。”
“1932年9月4日午後11時30分、シカゴ市内のもぐり酒場を襲って大きな戦果を収めたエリオット・ネスは、オデオン劇場の入口をはいっていった。
その翌日、フランク・ニティは一味の幹部を招集して緊急会議を開いた。”
“1934年9月、エリオット・ネスの率いるアンタッチャブルはシカゴ市内における麻薬取引の絶滅を期して活動を開始し、大きな成果を上げていた。一方、市内の麻薬を一手に扱うフランク・ニティは、減少の一途をたどる売り上げに業を煮やし、10月4日、15kgにのぼる大量のヘロインを入手すべく受け渡しの手はずを整えていた。”
“1933年、凶悪犯罪の波はついに最高潮に達し、シカゴが、ニューヨークが、セントルイスが、デトロイト、ニューオリンズ、カンサスシティ、全国の大都市のほとんど全てが腐敗と恐怖を武器とするギャングの支配下におかれていた。市民の強力な団結により、市の政治から腐敗と犯罪を完全に追放したコネチカット州のニューヘイブンはただひとつの例外とも言えよう。そして、犯罪組織を締め出すことに成功した立役者がFBIのアーノルド・ウェイブライトであった。しかし10月22時午前9時42分…。
翌朝、ニューヘイブンに着いたエリオット・ネスは、殺害されたFBIの助手ギルバート・バークを病室に訪れた。”
ギルバート・バーク(羽佐間道夫) 他
“1932年11月16日、折りからの寒風を突いてプロフットボール全米選手権試合が行われ、シカゴスタジアムは興奮のるつぼと化していたが、喚声どよめくスタンドの下ではそれに劣らぬ熾烈な戦いが繰り広げられていた。攻めるはジョー・パルカポナス、守るはダニー・クーガン、そして攻防の焦点はチャンピオンシップならずして莫大な利益を生む密輸ウイスキーの独占権である。”
“1932年10月、暗黒の帝王アル・カポネに有罪が下るや、牙を隠して時節の到来を待ちかねいた狼の群が一斉に活動を開始した。殺人の請負を業として「死の契約者」と呼ばれるフランキー・グルーダーもその一人である。今日もまた彼は、契約書に従って行動していた。条件は殺人。目的は港湾労務者によるストライキの妨害である。”
“アメリカの社会構造を一変したと言われる禁酒法は、ここシカゴのサウスサイドにも大きな影響を与え、ささやかなもぐり酒場から始まったクラブ「チュニジアン」は、今や全国でも指折りというほどの大規模なナイトクラブに発展していた。
恥を知らぬ悪辣さと駆け引きの巧妙さをもって人に知られる経営者のピート・ケーリックは、毎晩必ず店に現れて各界の名士や暗黒街の顔役などあらゆる階層にわたる客の機嫌を取り結ぶのを常としていたが、1932年3月2日の夜は普段とは事情が違っていた。匿名の電話による呼び出しを受けたエリオット・ネスが、ホースンとともに姿を現したのである。”
“1930年代の初期、競馬の賭けを扱う暗黒街のボス達の利益は急激に増加し、その求めに応じて競馬通信と称する新手の情報屋が各地に生まれていた。ほとんどすべての競馬場において場外への電話は禁止されていたが、特別観覧席に陣取った一味がレースの結果を書き出し、それを場外から望遠鏡で読みとって電信により通報するという方法で、レースの数分後には全国で払い戻しが始まると言われるほどの巨大な組織を作り上げていた。マイク・バリガンはダグラス・バロース、フレディ・ウィザースの二人とともにニューヨーク一と言われる通信社を経営していたが、1934年7月23日のことである。”
“禁酒法施行中の1932年、シカゴ市内におけるアルコール飲料の消費高は年に1億2000万リットルという驚くべき数字に上っていた。毎日30万リットルを越える酒が、あるいは10数万ドルを投じた巨大な工場から、あるいは屋根裏の風呂桶から間断なく生産されて、大型トラック・パイプライン・そしてソーダ水の空き瓶まで、あらゆる方法によって市内いたる所にあるもぐり酒場へ運び込まれていたが、そのすべてはほとんど喉も通らぬ悪質な物で、カナダを通じて細々と密輸されるスコッチウイスキーは法外な高値を呼び、それを扱う店は繁盛を極めて大きな収入を上げていた。”
“十年にわたる禁酒法も、密造ビールの流れをせき止めるまでにはいたらず、法律で許可されたアルコール濃度0.5%の代用ビールを強化する方法まで考え出され、密造者たちは莫大な利益を上げていたが、1932年10月、その製造の独占を目指して熾烈な戦いの幕が切って落とされたのである。独占の第一歩は23歳の秘書アングラッツラーのアパートで始められた。”
小林清志 チャーリー(滝口順平) (ロバート・ロッジア 山田康雄) 他
“1932年3月3日、シカゴへ向かう急行列車には異様な荷物が積まれていた。
3月4日、エリオット・ネス率いるアンタッチャブルが捜査に乗りだし、殺された男の一人が悪名高きストライカー兄弟の子分であることが判明した。
ネスの言葉に間違いはなかった。最年長のモートンをリーダーする4人のストライカー兄弟は、末弟のベニーに至るまで失われた縄張りの回復に全力を傾けていたが、かねてカポネから申し渡されていた必要条件たる勢力再建の軍資金がやっと調達できたのである。”
“1934年8月29日、ヘイマーケットの名で呼ばれる、シカゴのスラム街の一画にある安アパートの屋上で、今や一人の男が死なんとしていた。男の名はダニエル・ゴースデン。最近とみに活発の度を加えてきた麻薬密売組織摘発のために特に厳選されてエリオット・ネスの率いるアンタッチャブルに協力を命ぜられたシカゴ警察の麻薬捜査官である。”
森山周一郎 他
“1934年3月7日、麻薬取引の根絶を命じられたアンタッチャブルは苦心の末一味の大物ベニー・リーバスを追いつめたが、手当のかいもなくリーバスは死んで、エリオット・ネスは彼の最期の言葉にあった「808」を訪れた。”
田中信夫 他
“1920年代の中頃に完成されたスロットマシーンは、法律による禁止にも関わらず数年のうちにアメリカ中に普及し、「片腕の盗人」と呼ばれて飽くなき貪欲さで一般市民のポケットマネーを吸い集め、ギャングたちの重要な財源の一つになっていた。しかし、大きな利益は当然大きな危険を意味するのである。
1933年11月7日夜、四人の男がポーカー・デービスの店へ入っていった。”
翌朝、ポーカー・デービスはジョー・ボーマーを訪ねた。カポネの子分として名を売り、現在ではスロットマシンの独占を企む暗黒街の大物である。
“1932年6月、エリオット・ネスの率いるアンタッチャブルはシカゴにおけるシャンペンの密造を完全に停止させることに成功したが、それから4ヶ月、アンタッチャブルの努力を嘲笑うが如く、大量のシャンペンがウエストサイドに軒を連ねるもぐり酒場に再び姿を現した。その供給源は市外にあるとの確信を抱いたエリオット・ネスは、工場の所在地を突き止めるべく襲撃の手筈を整えていた。目標はシカゴでも指折りのナイトクラブ「シルバーキャナリー」である。”
“1930年12月18日、シカゴ ノースサイドでポケットビリヤードの世界選手権試合が開かれ、鮮やかなキューのさばきに一突き1000ドルと言われる賞金が賭けられていた。そしてサウスサイドではハービー・ケッチャーがエイトボールの試合を行っていた。賭け金はワンゲーム50セントである。”
“1932年6月3日、夜の闇を突いてニューヨークを出発した急行列車に二人の男が乗っていた。密造酒の工場建築を手配させては奇抜なアイデアと工事の正確さで並ぶ者はないと言われたジョーイ・ラスターと、十年来彼と行動をともにする殺し屋のニック・カラビーノで、目的地はシカゴ。アンタッチャブルの摘発に対して絶対安全な密造工場を作り上げようというのである。”
“1932年夏、とどまるところを知らぬ不景気の波はアメリカ全土を覆い、働くに職を失った1200の失業者が巷にあふれて、シカゴでは半減した密造酒の売れ行きに頭を悩ますウイスキーシンジケートのメンバーが、議長を務めるビンセント・トゥースの家に集まって売り上げ増進の案を練っていた。”
吉沢久嘉 他
“ニューヨークにおいて世界最高の威容を誇るエンパイヤステートビルの工事が進められていた頃、シカゴの安アパートの地下室には、天にも届く野望を燃やす一人の青年がいた。暗黒街の制覇を夢見る、ミシガン大学の卒業生エメット・パーカーである。1930年10月16日、すべての準備を終わったパーカーは数年来の夢を現実にかえるべく計画を実行に移した。”
エメット・パーカー(山田康雄) 他
家弓家正 他
“1929年2月19日午前2時、エリオット・ネスはシカゴ環状線内の安ホテルを訪れた。”
“193年月日、”
“当時のシカゴにおいては身元不明の変死人は日常茶飯事に等しく、ミシガン湖において発見された死体も大した関心を引かずに、報告を受けた市警察の手で事務的に処理され、いちおう死体置き場に収容されたのち、身元の調査は失踪人係に一任された。193年月日、”
“1930年のシカゴにおいては、密造酒生産高の90%はシンジケートが握っていたといわれ、経理の才に長け暗黒街きっての切れ者と噂されたジーク・グージックがボスの座に就いていた。”
“禁酒法の下においてはシカゴに限らずどこの都会でもバーや酒場はたいてい地下室などに人目を避けて店を開くのを常としていた。1932年9月30日、「デッドライン」と名付ける新聞記者相手のもぐり酒場におきまりのコーヒーカップで密造酒を酌み交わす二人の客がいた。
新聞記者カール・エドマンズの殺害より十分、市警察からの連絡を受けたエリオット・ネスが現場へ急行した。”
レオ・スティーゼック(羽佐間道夫) 他
“193年月日、”
“ニューオリンズに始まったジャズは1920年代に入ってシカゴへ流れこみ、当時の騒然とした民衆のムードにマッチして大いに好評を博し、ことにその激しいリズムがもぐり酒場の客に愛好されて、ジャズのあるところ必ず密造酒蟻とまで言われるほどになっていた。しかし、1930年のシカゴ ゴールドコーストには、ジャズだけを売る店も何軒かあった。グースの愛称で呼ばれるレイ・ガンダーの店もそのひとつで、客のほとんどは限られたメニューに満足していたが、大いに不平を鳴らす者もいたのである。”
“縦横無尽の活躍によって密輸ルートを徹底的に叩き潰し、財源を酒の密売に頼っていたギャングたちに壊滅的な打撃を与えたアンタッチャブルは、その矛先を転じて麻薬取引に対する攻撃を開始し、9月の初めにはシカゴ市内における麻薬の主要な供給源をすべて破壊して、市中のヘロインの闇値は一挙に3倍の高値をよんでいた。1933年10月4日、人目を避けてひっそりとシカゴへ着いた、上海からの旅行者があった。”
“1931年秋、シカゴ サウスサイドの路地裏に、屑鉄商の看板を掲げてウイスキーの密造を始め、売春に麻薬にあらゆる悪事に手を伸ばして莫大な利益を欲しいままにするギャングの一味があった。一味のボスこそはグレンストリートのもぐり酒場から身を起こして、その狡猾さと飽くなき残忍さでわずか二年の間にサウスサイドに強大な縄張りを築き上げたビクター・サラザーである。”
千葉耕市 他
“空前の不景気に始まった1930年もようやく終わりに近づき、クリスマスを明日に控えたシカゴはわずかに例年の賑わいを取り戻そうとしていた。”
“1932年1月10日、禁酒法違反で服役中のアル・レンプが突然独房へ移された。
エリオット・ネスが全力を挙げて追求するオーギー・ストロムは、シカゴのと殺場の一画に一味の本拠を置き、大規模な精肉工場を表看板に、禁酒法に違反することをその本業にしていた。”
“193年月日、”
“その翌日、シカゴのオフィス街におよそあたりの雰囲気にそぐわぬ二人の男が姿を現した。以前カポネの用心棒をつとめたピート・カルミンスキーとシンジケートの会計係アラン・シトキンである。二人が面会を求めたのは、アメリカ東北部一帯に巨大な輸送網を持ち、創業八十年の伝統に輝く鉄道会社の社長ジョーゼフ・デッセンバー2世出会った。父親の跡を継いだジョーイ・ディッセンバーも、ひところはあらゆる仕事に手を伸ばして成功を収め、天才児の名をほしいままにしていたが、押し寄せる不景気の波に抗する術もなく、会社は今や破産寸前の状態にあった。”
羽佐間道夫 他
“193年月日、”
“1932年5月17日、おりからの不況に失業者が巷に溢れ、シカゴにも無料給食所がいたる所に設けられてあったが、その一軒に変わった客が姿を見せた。”
“1934年2月4日、ニューヨーク市警察の協力を得たアンタッチャブルは、イーストサイドに水も漏らさぬ包囲網を敷いた。目指すは犯罪シンジケートのボス ジョー・クーラックの子分スマイリー・バニスである。”
“1933年12月、国中を上げての派手なお祭り騒ぎのうちに、禁酒法は葬り去られた。しかし、その落とし子たるギャングの組織は死に絶えるどころかいっそう有利な財源を他に見つけてますます勢力を加えていった。麻薬である。すでに、国内における麻薬の売買はニューヨークのシンジケートがその大半を支配していたが、1934年4月16日、シンジケートはその使いをシカゴへ派遣した。訪ねる相手は、麻薬に関することはすべてを一手に引き受けるルイ・メディコフである。”
ルイ・メディコフ(中村正) 他
“1933年3月2日夜、ミシガン湖北部の入江に一艘のボートが入っていった。積み荷は、密造酒によって莫大な利益を上げるシカゴの犯罪シンジケートが高額の給料をエサに、はるばる9000キロをドイツからカナダを経由して密入国させたビールの仕込み職人である。
その頃、シカゴではエリオット・ネスの率いるアンタッチャブルが市内にあふれる密造酒に対して戦いを挑んでいた。”
“1929年2月、当時のシカゴでは拳銃を買うには警察の許可が必要であったが、はるかに大きな威力をもつ機関銃の売買には何の制限もなく、自由に買うことができたのである。
その日のうちに、ノースサイドを支配するバンス・モランに対するカポネ一味の攻撃が開始され、シカゴの犯罪史上にもその比を見ぬ血生臭い毎日が続いたが、1929年2月14日、有名な「バレンタインデーの虐殺」が行われるに及んで、国中の世論が沸騰し、ただちに機関銃の所持を禁止する法案が可決された。2月16日、アル・カポネは休暇と称してマイアミへ向かい、彼の右腕フランク・ニティがその後を任されていた。”
“1931年4月3日、ここシカゴの貨物駅の間近にある食堂は、スペシャルディナーが35セント、コーヒーにドーナツが付いて5セント、ハンバーグがまた5セントと、値段も外見も他の食堂となんの変わりもなかったが、カウンターの後ろにある事務所にはシカゴ サウスサイドのボス、ビクター・カーツの本拠が置かれ、二年間にわたる縄張り争いを終結させるための平和会議が開かれていた。ビクター・カーツとその右腕ホリー・ケスター、そしてノースサイドの密造酒を一手に取り締まるモンク・ライゼルと彼の一の子分として最近売出しのカール・ダンチッヒである。”
“1933年1月、全世界を覆う不景気の波に収入の道を奪われたシカゴの市民たちは、1個5セントの林檎に飢えをしのぎ、10セントのダンスに失望と退屈とを紛らしていた。
エリエ・ハスケルの殺害から一時間経った10時35分、シカゴ警察殺人課のロイ・ガンサー警部が事件の調査にあたっていた。”
“1933年11月18日、ジャージーシティの岩壁に横付けされた貨物船で、6年ぶりにひっそりとアメリカへ戻ってきた一人の男があった。ブラジルの犯罪カルテルから命を狙われるジョニー・マイゾーである。
危うく死を免れたジョニー・マイゾーは、自分の帰りを待ち受る者がいたことを知った。十一日間にわたる生と死との綱渡りが始まったのである。
ジャージーシティの波止場における殺人から十二時間、仲間の一人を失った三人の殺し屋が一味のボス ビンス・マジェスティに事情を報告するためにシカゴへ帰ってきた。”
“シカゴ ウェストサイドの密造酒販売網を一手に握るジュールス・フラックの命を受けた殺し屋ジョン・クロッパーは、同業者の一人であるデービッド・アルパインをバーレスク劇場リドの裏口で待ち受け、これを射殺した。1933年2月1日の夜、禁酒法の撤廃を叫ぶフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任する直前のことである。”
“1932年4月28日、六日間にわたる全米競輪大会も決勝戦を迎え、スタンドは興奮に包まれていたが、シカゴ サウスサイドのボス デューク・モンテにとってはレースの勝負は問題ではなかった。
1932年5月29日、25万ドルにのぼる偽造紙幣所持の罪に問われたデューク・モンテは連邦裁判所において有罪を認められ、十年以上十五年未満の不定期刑を宣告された。それから約二時間後、モンテ一味の本拠が置かれているイーストバーニーストリートのオデオン劇場では、騒々しいバンド演奏をよそに一幕の無言劇が演じられていた。主役は、モンテの娘ボビーと結婚して自他ともにその後継者をもって任ずるルー・サルタンである。”
“1933年6月25日、シカゴ周辺の暗黒街からキングという尊称を奉られている大立者フランク・アーゴスが今まさに最後の息を引き取ろうとしていた。悪評高き禁酒法が効力を失って間もない頃のことである。午前2時30分、エリオット・ネスは「城」という通り名を持つその豪壮な邸宅を訪れる。アーゴスの弁護士から「キングに代わってぜひ頼みたいことがある」という連絡を受けたからであった。”
“1918年10月、四年にわたる第一次世界大戦もようやく終わりに近づき、敗走するドイツ軍を追ってエルロイ・ダールグレン一等兵はめざましい働きを続けた。小石を投げて50メートル先の小鳥を殺すという絶妙のコントロールを買われてデトロイト・タイガースに入団し、11勝をあげて新人王の座に就いたエルロイが、戦場でもその才能を発揮していたのである。
戦争はエルロイを、手榴弾を使って人を殺す魅力の虜にしてしまった。それから14年、戦争はすでに過去の出来事となっていたが、彼は依然としてその魅力に囚われていたのである。”
“1931年8月、エリオット・ネスの指揮の下にアンタッチャブルは折りからの酷暑をむかえ、急激に増加した密造工場を突き止めると、昼は炎天の下連日にわたる聞き込みに、夜に入っては12時過ぎまでも情報の検討や作戦の練り直しに、いつ果てるとも知れぬ戦いを続けていた。”
“1931年10月17日、連邦裁判所において十一日間にわたって続けられたアル・カポネの公判は終わりを告げた。脱税容疑という意表を突く名目で彼を逮捕し、ついに有罪を勝ち取ることに成功した男こそ、アンタッチャブルを率いるエリオット・ネスであったが、皮肉にも両者はそれまで一度も会ったことがなく、有罪の判決を受けて裁判所を出たカポネは、勝利の快感をかみしめるエリオット・ネスの姿に気づかぬまま連行されていった。
1932年5月3日、判決を不服として最高裁判所に上告し、最後のあがきを続けてきたアル・カポネもアトランタの刑務所に送られることになり、シカゴのディアボンステーションには数千の群衆が集まっていたが、それに混じってカポネの後継者をもって自ら任ずるフランク・ニティをはじめ一味の主だったメンバーが顔を連ねていた。拘置所からの護送には、厳重に武装したアンタッチャブルがあたり、待ち受けた二人の連邦保安官に身柄を引き渡した。かくて30歳の若さで暗黒街に君臨したアル・カポネの輝かしき生涯は幕を閉じ、ここに灰色の人生に向けての第一歩が踏み出されたのである。”
“1934年8月19日午前5時、アトランタを出発してアメリカ横断の旅にのぼった列車が目指すはサンフランシスコ湾に浮かぶ孤島アルカトラスである。そして、その乗客たる54人の犯罪者の中には「暗黒の帝王」と呼ばれてシカゴの暗黒街に君臨したアル・カポネもその不敵な面構えを見せていた。
その頃、シカゴ サウスサイドにあるカフェ モンマルトルの2階では、大胆不敵な計画が実行に移されようとしていた。護送列車を襲撃してカポネを救いだし、国外へ脱出させようというのである。
一方、カポネが獄中から発信した電報の謎を解いたエリオット・ネスは、脱走が計画されているとの確信を抱き、アトランタでカポネと同じ監房にいたベニー・マーカスが六週間前に仮釈放になりシカゴに来ているという事実を突き止めた。”